1957年 スェーデン 90分
監督:イングマール・ベルイマン
死を見つめた文芸作。 ★★★★★
老境に入った一人の医師が、若かった頃の日々を思い出しながら過ごす一日を描いている。
生きてきたことにはどんな意味があったのか、死に向かうということはどんなことなのか、そんなことをしみじみと考えさせてくれる作品。
長年医師として働いてきて名誉博士号を明日授与されることになっているイサクは、夢を見る。
その夢の中の世界では、時計の針がなく、誰も乗っていない荷馬車から落ちた棺桶のなかには自分の死体が入っていた。
この冒頭から、不吉な、それでいて暗示的な美しい映像に引き込まれる。
コントラストが強いモノクロの画面は、ものごとの光りと影を強調して映し出している。
人生をふりかえったときに、曖昧なものは淘汰されて、自分に強い印象を与えたものだけがくっきりと浮かび上がってくるように、だ。
人生の終わり近くになって表彰されるようなイサクなのだが、本人は空しい人生だったと思っている。
それは何故なのかはすぐに明かされる。イサクは他人に心を開いてこなかったのだ。
イサクは義娘の運転する車で式典のおこなわれる街へ向かうのだが、途中で、青年時代を過ごした家に立ち寄る。
そして、積極的な弟に奪われた婚約者サラのことや、くだらない男と不倫をした妻のことを想い出したりする。
サラも、妻も、イサクが自分のことしか考えておらず、他人に対して冷たいのだと、言う。
イサクはそんな生き方を選び取ってきたのだが、老境になってみるとそれは孤独という現在の状況をもたらしている。
それは当然のことだ。他人に対して冷たかったのであれば、他人もまた自分に対して冷たい。それは覚悟の上のことだったはずだ。
しかし、それは辛く淋しい人生の送り方だったのだろう。
それからの旅路でも、ヒッチハイクの三人組(そのうちの一人はサラを演じた女優の一人二役)を車に乗せてやったり、口論ばかりしている夫婦と行き会ったりする。
屈託のない若者たちはイサクの気持ちまで明るくするし、仲の悪い夫婦はこちらまでいたたまれない気持ちにする。
現在と過去の回想、あるいは夢想が、効果的に組み合わされて、イサクの心の動きをあらわしていく。
現実と幻想が入り乱れながら、それでいてくっきりと対比されている。
見事な映像手法としか言いようがない。
今の自分には、過去のすべての自分が集まっているのだということを、あらためて考えさせられる作品である。
長い1日がすぎて、イサクは、仲違いをしていた息子や義娘の気持ちも受け入れようとする。
式典で勲章を授与されたイサクを、その夜、例の三人組がホテルの窓の外で祝ってくれる。
ここは好い場面だった。観ている者の気持ちもほぐれていく。
最後にイサクはふたたび夢を見る。
夢にあらわれたサラは、野いちごはもうみんな摘んでしまったから無いのよ、という。
野いちごとは、何の喩だったのだろうか。次第に摘み取っていく時間の流れに実をつけているものだったのだろうか。
そのあとにイサクは父が釣りをしている美しい風景を見る。
人生を振り返れば、どんな人生であっても、意味があったのだなと人は思えるものなのだろうか。
観る人の年齢によって、受け取り方は大きく違う作品だろう。
いつも厳しいテーマを投げつけてくるベルイマンだが、見終わったあとにじわーっとした優しさに包まれます。
ベルイマンの一番のお気に入りの作品です。