あきりんの映画生活

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「ディア・ドクター」 (2009年)

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2009年 日本 127分
監督:西川美和
出演:笑福亭鶴瓶、 瑛太、 余貴美子、 八千草薫

僻地医療をあつかった人間ドラマ。 ★★★

おそらく、主人公の医師については知った上で、この映画を観る人が多いと思う。
この記事も、その点についてのネタバレをしたうえで書いている。念のため。

   ***

長らく無医村だった村の診療所には数年前から医師、伊野(笑福亭鶴瓶)がやってきていた。そんな彼のもとへ東京から研修医、相馬(瑛太)がやって来る。
都会的な病院での医療しか知らなかった相馬だったが、村での家庭医として働いている伊野の姿に次第に共感を覚えていく。

この映画の核心は、無医村問題、ニセ医者問題をとおして、本当の医者のあり方について考えさせるところにある。
伊野は聴診器と血圧計だけで村中を往診で回っている。
実際のところ、それだけで判る病気は少ないだろうと思ってしまうのだが、その行為のあり方が村人にとっては大切だったのだろう。
(しかし、伊野は胃カメラ下の生検までおこなう技術は身につけている。大したものだ。)

そんな伊野の奮闘ぶりは、お餅(だった?)を喉につまらせて死にかけた老人を怪我の功名で助けたり、緊張性気胸の応急処置をなんとかおこなったりと、映画らしい盛り上げでみせてくれる。

おたおたとしながらも医者としての演技をしていく伊野の様子を、鶴瓶が好演している。
鶴瓶は、表面だけ見ていると憎めないようでいて、その実なにか一物抱えているようにみえる人物像を演じて、巧みである。

ニセ医者なのだが、伊野は無医村には必要な存在だったことは間違いないことだろう。
村人がニセ医者と知るまでは・・・。
それなら、伊野の医師免許は村人にとってはたして必要だったのだろうか?

伊野がニセ医者であることがばれるのは、本物の医者の娘をもつかづ子(八千草薫)の胃がんを意図的に隠したから。
それはかづ子に頼まれてしたことであり、なにも医療行為に失敗したからではない。

腹部の触診だけで伊野が顔色を変えたところをみると、かづ子の胃がんはお腹の上から触れるほどに進行していたのだろう。
おそらく完治は不可能な癌だったのではないだろうか。
そのことを知った娘の言葉、「伊野先生だったらどんな風に母を死なせてくれたのでしょう?」が印象的だった。
かづ子自身も一体どんな死に方を望んでいたのだろう。
医者は完治不能な癌患者にはどうしてやるのがよいのだろう。

ニセ医者だった伊野について一番深く考えていたのは、同じ(というのは語弊があるが)医者であるかづ子の娘だったのだろう。
医者としてどうあるべきかという問題点を捉えている。

それにひき換え、研修医の瑛太は医者が何であるか未だなんにも判っていない。
青臭い理想論をふりまわすだけで、伊野がニセ医者だと知ったとたんに評価を180度変えてしまっている。

つい善良だと思ってしまう村人にしても同じことがいえる。
伊野がニセ医者だと知ったとたんに、これまでの信頼感や感謝の気持ちなどどこにもなかったかのように、手のひらを返したような言動をする。
結局は自分たちの生活を守って欲しかっただけで、伊野である必要はどこにもなかったのだろうな。
伊野の人間性なんてものはどうでも良かったわけだ。

典型的な僻地医療の問題点をときにコミカルに描きながら、実は、医者とは何をもとめられる存在であるのか、何をするのが医者の本来の姿なのか、ということを問い直している映画だった。