2012年 アメリカ 101分
監督:ローリーン・スカファリア
出演:スティーブ・カレル、 キーラ・ナイトレイ
地球が滅ぶとき、誰と一緒にいたい? ★★☆
地球が滅亡するという設定の映画はこれまでにもいくつもあった。
パニック系だったのは「ディープ・インパクト」やニコラス・ケイジの「ノゥイング」。終末を迎える人々の憂うつな心理を描いていたのはラース・フォントリア監督の「メランコリア」。
この映画は、いわゆるハート・ウォーミング系。
地球は21日後に小惑星の衝突を迎えることになった。
人々は残された日々を享楽的に過ごそうとし、街にはやけになった人々の暴動騒ぎも起こっている。
そんな中で、浮気をしていた妻に去られた後も、ドッジ(スティーヴ・カレル)は最後まで真面目人間だった。
何をしようと(法律的にどんな悪いことをしようと、倫理的にどんな悪いことをしようと)みんな同じように死んでしまうのであれば、自分だったらいったい何をしようとするだろう?
浜辺だかで清らかな集いを持っている人々も描かれていたが、私は宗教心はないしなあ。
でも、自暴自棄になっても心が貧しくなるばかりで、ますます虚しさが強くなるであろうことは想像がつく。
そんな状況で、ドッジはペニー(キーラ・ナイトレイ)と知り合う。
彼女は最後の飛行機に乗り遅れて、両親のいるイギリスに帰れなかったのだ。
そんな彼女は、ドッジの昔の恋人から配達間違いで届いていた手紙を持っていた。
飛行機を探すペニーと、昔の恋人を訪ねようとするドッジは、二人で旅に出る。
そう、世界が終わるのであれば、これまでの人生のような将来に対する計算や打算は要らなくなる。
自分が本当にしたいことだけを考えればよくなる。
生き方がわかりやすくなる。
(ずっとその考えで生きることができればいいのだけれど、いつもは何歳まで生きなければ判らないから、したいことも我慢しているわけだなあ)。
で、本当にしたいことは、世界が終わるときに愛する人と一緒にいたい・・・!
二人が途中で出会う人たちもそれぞれ。
死ぬのが怖いので、誰かに殺してもらいたいと自分の暗殺依頼をした人。
あるいは、世界滅亡後も生き残ろうと食料や武器を集めて地下に立てこもろうとする人。
あるいは、来店する人に過剰なサービスをしてみんなで楽しく過ごそうとするレストランの人。
などなど。
どれも判る気はするなあ。
毎週木曜日にドッジの部屋を掃除にやってくる黒人のおばさんがいた。
世界が終わるというのに、このおばさんはその生活を変えようとしない。
実に好いキャラだった。いいなあ、こういう人は。
それに、最後までTVニュースを放送していたパーソナリティもいた。
これが私の最後の放送です、と言ってカメラの前から去っていき、放送電波が途絶えた画面になる。
ああいう人も(TVニュースを最後まで放送していた人々も)いいなあ。
ドッジは旅の途中で永年不仲だった父(なんとマーティン・シーン)を訪ねる。
和解をするためかと思ったのだが、彼がわざわざ父を訪ねたのにはもうひとつの目的があった。
それが判ったときには、ああ、そうだったのか!と思った。なるほど、そういうことだったのか。
キーラ・ナイトレイは、ちょっと変わった女の子、という感じで、この設定の物語にはよく合っていた。
難点は、ドッジとペニーが惹かれ合うようになる理由に説得力が乏しかったこと。
これは結構この映画にとっては大きなマイナス点だった。
それぞれの愛する人のところに行こうとした二人は、どうした?
映画の最後はちょっと綺麗にまとめすぎたかもしれない。
しかし、世界の終わりを描きながら、人が生きることの意味を問い直しているような映画でした。
(註:まったく同名の、まったく有名でない映画があります。ある朝、目覚めると巨大円盤が空にいた、というものです。記事を書いていますので、興味があればお読みください。)