2015年 メキシコ 90分
監督:イサーク・エスバン
またもや不条理映画。 ★★★
前作「パラドクス」はすごい不条理映画だった。
怪作だった。あそこまで突きぬけてしまうのは凄いことだと思わせる映画だった。
そのイサーク・エスバン監督作。さて、今回はどうなっている?
舞台は、都市から5時間も離れたところにある寂れたバス・ステーション。カメラがこのステーションから出るのはラストの物語が終わるときだけ。
登場人物はそこに閉じ込められた8人の人物だけ。
外は不気味な雨が降りつづいている。
ほとんどモノクロに近い色彩は、非現実的な空間を映しだしているよう。
髭男のウリセスは出産しようとする妻の元へ駆けつけたいのだが、待っているバスは激しい雨のせいでいつまでも来ない。
DVの夫から逃げてきた妊婦のイレーヌ、広間の片隅で意味不明の言葉をつぶやいている祈祷師のような老婆、それにこのステーションの従業員のマルティンとローザ。
雨は止まず、雑音混じりのラジオからは、これは普通の雨ではありません、外へ出ないように、というアナウンサーの声が途切れ途切れに聞こえてくる。
ん~、もうこの出だしから不気味。
この外の世界ではなにが起こっているのだろう? とんでもないことが起きているのではないだろうか?
そこへ、医学生のアルバロと、喉に何やら介護機械を取りつけた少年イグナシオと母ロベルタも雨のなかをこのバス・ステーションへやって来る。
さあ、役者は揃った。ここからだよ、物語が動くのは・・・。
(以下、途中までのあらすじ)
やがてとんでもないことが起き始める。
なんとローザの顔が醜く変わりはじめる。人に見られたくなくてトイレに駆け込むローザ。
これは何かの未知の感染病なのか? この雨が感染をもたらしているのか?
ローザは変容した自分の顔を自ら切り刻みはじめる。うへぇ~。
そして、マルティンもやおら自分の顔に包帯を巻きつけ顔を隠し始める。
俺の顔を見るなっ!
(ポスターでは登場人物が全員包帯で顔を隠しているが、映画の中では顔を隠すのはマルティンだけ。このポスターは嘘つき。)
そして、そして、その顔というのは、なんと髭面男のウリセスの顔なのだ。
ローザも、マルティンもセリウスの顔になってしまったのだ。
なんだ?こりゃ?
そして、そして、ステーションの事務室に張ってあったビートルズの4人の顔も、007の映画ポスターのショーン・コネリーの顔も、いつの間にかウリセスの顔に変化していたのだ。
なんだ? こりゃ?
革命家かぶれの医学生のアルバロは、これはテロだと叫び、銃を構えはじめる。
お前がこの陰謀の張本人だろうとウリセスを詰問する。
いや、お前こそ怪しいぞ。
みんなが混乱して疑心暗鬼となる。死者も出始める。
いったい、これはどうなってしまうのだ?
とにかく登場人物の顔が(祈祷師の老婆まで)みんなウリセスの顔になってしまう。
これは不気味でもあるのだが、どこか滑稽でもある。
陰鬱な、色彩に乏しい、うら寂しいバス・ステーションの中で、これはオカルト映画だったのか?
こんな展開になってしまって、いったい物語はどこへ向かうのだ?
(以下、ネタバレ)
この映画で一番感心したところ、それは、髭面ウリセスも実は初めから感染した顔だったというところ。
なるほど。そうでないと説明がつかないものなあ。
映画の最後、雨の一夜が過ぎる。明るい青空が広がり、救急車が駆けつけている。
物語の落としどころはそういうことだったのか。
ああ、面白かった、と思うか、なんや、インチキや、と思うか。
一度見たら忘れられない映画であることは確かです。