あきりんの映画生活

映画鑑賞だけのブログです。★★★★が満点評価ですが、ときに思い入れ加算があります。約2000本の映画について載せていますので、お目当ての作品を検索で探してください。監督名、主演俳優名でも検索できます。

「ミッション・インポッシブル デッドレコニング Part1」 (2023年) トム、今度こそ本当に死んじゃうぞ

2023年 アメリカ 164分 
監督:クリストファー・マッカリー
出演:トム・クルーズ、 ヘイリー・アトウェル、 レベッカ・ファーガソン、 サイモン・ペッグ

「ミッション・インポッシブル」シリーズの第7作。 ★★★★

 

オープニングからラロ・シフリン作曲の4分の5拍子のテーマ曲が流れる。
一気に気持ちが高揚する。やはりMIシリーズはこうでなけりゃ、ね。

 

冒頭に、情報を操作して人間を騙すようなAIが登場する。
今や人間は計器が示す情報を基にほとんどすべての行動を決定している。
もはや、第六感とか好みとか、そんな人間的なものを捨てたところで世界が成り立っている。
だから、情報を操作できるAIが登場すれば、それは無敵の存在になってしまう。
今回のイーサン・ハント(トム・クルーズ)の戦いはそれをめぐるもの。

 

(もう有名になった本作なので、若干ネタバレ記述があります。未見の方は要注意)

 

物語が始まってすぐに、砂漠を行くイーサンが邂逅するのは、おお、レベッカ・ファーガソン演じるイルサではないか。
本シリーズの5作目からはイーサンの恋人役として定着していた彼女。
砂嵐の中で狙撃銃を操る彼女の格好いいことといったら。

 

そのあとも、世界各地を跳び回ってのアクションが続く。
今作で大きく活躍するのが女スリのグレース(ヘイリー・アトウェル)。
ある公爵夫人の生涯」では、キーラ・ナイトレイの親友で夫の愛人にもなる役だった。あんな淑女を演じていた人がこんなアクション役もするのか。すごいね。

 

タイトルの「デッド・レコニング」というのは、「推測航法」という専門用語。
これまでの航行経路などを基にして現在の位置を推定し、その位置情報から行う航法のことらしい。
さて、これがイーサン・ハントの活躍の何を指し示しているのだろうか。

 

本シリーズの売りは、とにかくトムが身体を張ってアクションをしているという点。
60歳の大台に乗ったトムだが、今回も走るぞ。エアポートの屋上やベネチアの回廊を全速力で走り抜ける。
頬の贅肉をブルブルさせながら全力疾走するシーンは役者魂だよなあ。

 

重厚なオーケストラサウンドが非常に魅力的で、てっきりハンス・ジマーかと思ったら、よくジマーと共同制作しているローン・バルフェの単独での仕事だった。
この音楽も映画を盛り上げてくれていた。

 

人でごった返している空港での鬼ごっこも面白かった。
顔識別もあんなにできるようになったら、悪いことをした人はみんなすぐに捕まってしまいそう。
そこでその裏をかく・・・、面白いなあ。

 

ローマでのカーチェイスも楽しかった。
イーサンとグレースが逃げる車がミニミニカーというところも好い。
それに、手錠でつながれていてまともに運転ができない状態というのもアクセントとなっていた。

 

ポスターでも大宣伝をしていたバイクライドからのパラシュート飛行。
1200mの断崖絶壁から渓谷に落下していくなんて、これは本当に凄い。
トム、これ本当にやったんだねえ。今度こそ本当に死んじゃうぞと思ったぞ(苦笑)。

 

それにも増して手に汗握ったのは、爆破された鉄橋から落ちそうになる列車の中での脱出行だった。
観ているこちらも、文字通り両足を踏ん張って息を詰めてしまったぞ。
私は高所恐怖症なので、もう少しでちびてしまいそうにもなったぞ(汗)。

 

今作で大きな衝撃だったのは、やはりイルサの死だった。
イーサンの愛する二人の女性のうちどちらかが死ぬ、などという悪党の宣告もあったわけだが、まさかイルサが死んでしまうとは。
(Part2 で復活してくるなんてことはないのだろうな)

 

イルサが退場して、交代するようにIMFに加わることになるグレースなのだが、ちょっと文句を言いたい。
あんた、地下鉄の線路の上で自分だけ手錠を外して逃げたやろ。
イーサンも間一髪で手錠を外したから地下鉄に轢かれずにすんだが、あんた、イーサンを見殺しにしようとしたんだぜ。
少しは反省しろよ 怒!。

 

2時間半越えの長さだが、全く緊張感が途切れることはなかった。
見せ場だらけ、あるいは見せ場の連続。7作目になってもマンネリにならずにこれだけのものを作るとは、たいしたものだ。
大満足で見終わった。

 

次のPart2 で本シリーズも終了するのだろうか。
名残惜しいのだが、いずれは訪れる日である。その日を静かに待つことにする。

 

「扉の影に誰かいる」 (1971年) サイコ野郎がブロンソンを操るぞ

1971年 フランス 95分 
監督:ニコラス・ジェスネル
出演:チャールズ・ブロンソン、 アンソニー・パーキンス、 ジル・アイアランド

サスペンスもの。 ★★☆

 

ロンドン郊外の病院に記憶喪失の男(チャールズ・ブロンソン)がやって来る。
彼を診察した精神科医のローレンス(アンソニー・パーキンス)は、治療をおこなうという名目で彼を自宅に連れ帰った。
ローレンスにはある企みがあったのだ。

 

アンソニー・パーキンスといえば、もちろんサイコ野郎である。
あの映画以来、観る人はみんなパーキンスが演じる役をそう思っているのではないだろうか。
この映画でもその精神の壊れっぷりは健在で(?)、もう完全に物語の主人公となっている。

 

それにひきかえ、この映画のブロンソンはパーキンスにいいように操られている、ちょっと情けない役。
終始(記憶喪失者だから無理ないのだが)自信なさげな当惑顔で、嘘を吹き込まれ誘導されるわ、記憶喪失前もロクな事してないわで、まったくいいところなし。
こんな格好悪い役をよくやったな。

 

ローレンスの企みは、浮気をしている妻(ジル・アイアランド)の相手を記憶喪失男に殺させようというもの。
自分が殺す代わりに、記憶喪失男を操って罪を犯させようというもの。
君の奥さんはこの写真のきれいな人だよ。そんな奥さんに横恋慕をして危害を加えようとしている奴がいるんだよ。そいつを殺して奥さんを取り戻さなくてはいけないよ。
さあ、上手くいくかな?

 

ブロンソンとジル・アイアランドはご存じのように実際の夫婦。
でも、アイアランドってブロンソンの映画以外では観たことがないなあ。

 

ローレンスは、浮気旅行に行っている妻の元から相手の男だけを呼び寄せる。
相手の男はローレンスの顔を知らないから、記憶喪失男を夫だと思い込ませて、二人の争いに持ち込めば上手くいくぞ。
のはずだったのだが・・・。ありゃ、妻まで一緒に来てしまったぞ。

 

当然、妻は叫ぶ、あなたは誰? 
俺? 俺はお前の夫じゃないか。こいつと浮気なんかしやがって・・・。
記憶喪失男(ブロンソン、ね)はローレンスの妻(アイアランド、ね)に襲いかかって服をはぎ取ろうとする。
あなたは夫なんかじゃないわ。夫はどこにいるの?
これをブロンソンとアイアランドが演じているところが、ご愛敬というところか。

 

パーキンスのサイコぶりが際立っていて、そこにアイアランドのお人形さんのような美しさと、ブロンソンの情けなさが付け加わった映画でした。
最後までどこかぬるかったなあ。

 

「バトル・オブ・サブマリン」 (2022年) 酸素が、バッテリーが・・・

2022年 108分 ポーランド 
監督:ヤツェク・ブワブト

リアル潜水艦もの。 ★☆

 

このタイトルである。そしてこのポスターである。
潜水艦もの好きとしては、これは観ておこうじゃないの、となるのは当然なのである。
さあ、どんなバトルが繰り広げられるのだ?

 

ところが、あれ? なのである。
大変に地味なのである。これがバトルなのか・・・。期待していたのとは違うなあ・・・。
この映画はポーランド製。そう、開戦してすぐにドイツの侵攻を受けた国である。
実際に存在した潜水艦オジェウの物語とのこと。そうか、それで地味なのか。

 

ときは1943年5月。オジェウはドイツ艦隊への攻撃命令を受けて出航し、イギリス海峡を渡っていく。
画面は終始暗く、潜水艦ものの常として狭い艦内のみである。
そしてほとんどが会話劇なのだが、登場人物の人間像がそれほど鮮明には描かれていないので、そこにドラマを感じることもほとんどなかった。

 

原題は「オジェウ 最後のパトロール」。
”バトル・オブ・サブマリン”なのだが、魚雷は1発も撃っていなかった。
ひたすら狭い館内で息を殺してじっと我慢する。それがこの映画のバトルなのである。
潜水艦内で乗組員が感じるストレスを、映画を観ている者にも伝えてくる。

 

途中でドイツ軍艦船との戦い場面がある。
しかし潜水艦ものなのに、艦は浮上して海上で銃撃戦をするのである。
どうして?と思ったのだが、どうやら相手はドイツ軍の小型戦闘艦艇で魚雷攻撃はできなかったようなのだ。
なんかなあ。史実ものなので、記録にある通りなのだろうけれども、やはり潜水艦ものらしい戦いを見せて欲しかったぞ。

 

潜望鏡深度での航行をしていた時に、オジェウは不意にやってきた航空機からの爆雷攻撃を受けてしまう。
艦内火災を起こし、浸水もはじまり、艦は沈降していく・・・。

 

エンタメ性を排したリアルな潜水艦ものとしては、名作の誉れ高い「Uボート」があった。
この映画もそれと同じような制作意図なのだろう。
しかし、あまりにも地味だった。

 

この映画の制作にはポーランド国防省が協力し、それに実際の艦隊戦隊が参加したとのこと。
本格的に作ろうとしたのだな・・・。
しかし、期待していたものとは大きく離れていたので、私の評価は低いものになった。

 

リアル潜水艦ものが好きな人には向いているのかもしれない。
観る時は、決して邦題とポスターに騙されないように。

 

「読書する女」 (1988年) 言葉を他人と共有したいの

1988年 フランス 99分 
監督:ミシャル・ドビル
出演:ミュウ・ミュウ

読み聞かせをする女。 ★★★

 

朗読する映画ということでまず思い出すのが、「きみに読む物語」。
あれは涙がにじんできてしまう、好い映画だった。
それに、小説「朗読者」を映画化したケイト・ウィンスレットの「愛を読む人」というのもあった。
未読・未見。あれも観なくては。
さて、本作は主演のミュウ・ミュウに惹かれて鑑賞。どんなだろう?

 

読書好きのコンスタンス(ミュウ・ミュウ)は恋人と同棲中。
ベッドの中で彼女は「読書する女」という本に夢中になり、恋人に読み聞かせている。
その本の物語が映画になっているという入れ子構造になっている。

 

小説「読書する女」の主人公マリー(ミュウ・ミュウの二役)は読書好き。
自他共に認める美声を生かして、客に本を読んで聞かせるという仕事を始める。
はて、お金を払ってまで本を読んでもらう人って、どんな人? 目の不自由な人ばかり? いやいや。

 

ミュウ・ミュウはこの映画のとき38歳。先日観た「五月のルイ」の2年前である。
マリーはもの静かな上品な女性なのだが、あんた、何を考えているんだ?といった行動を平然とする。
ミュウ・ミュウがその不思議な感じを上手く出していた。

 

さてマリーの顧客になったのは、どこか癖のある人物ばかり。
幼い頃から下半身不随の少年にはモーパッサンの「手」を読みきかせるが、ふいに彼は発作を起こしてしまう。
マリーは、精神病で死んだ作家の本を読むなと医師に叱られる。そんなものなのか? 変なの。

 

100歳になるという将軍の未亡人もいる。
レーニンマルクスが好きらしく、その誕生日には真っ赤な薔薇をベランダに飾ったりする。
そして彼女のメイドが、ツンデレでコケティッシュで魅力的。
下着の中に蜘蛛を飼っていると真顔で言う。そして蜘蛛に噛まれた跡を見せてくれたりする。
こんなメイドさんがいるメイド喫茶だったら通ってしまうかも・・・(行ったことがないので、どんなところなのか知らないのだが)。

 

離婚したばかりの中年社長にはデュラスの「ラマン・愛人」を読む。ヤバイ選択だな。大丈夫か?
彼は朗読をきくよりもマリーの身体に魅せられている(やっぱりね)。
朗読の最中にも身体を触りまくり、結局はマリーもベッドでその相手をしてやる。あんた、なに考えているんだ?
しかもその行為のさなかにも朗読を続ける。私は朗読のプロよ。

 

「五月のミル」の時も思ったのだが、フランス人の考え方や恋愛観はなかなか理解できない。
フランス人にとってはセックスをするのも、ちょっと親しい異性とお茶を飲むような感覚なのだろうか。まさかね。

 

シングルマザーから幼女への読み聞かせを頼まれたマリーは、幼女にせがまれるままに移動遊園地に行ったりする。
で、誘拐犯に間違えられて大騒動になったりする。
読み聞かせるのは「不思議の国のアリス」だよ。

 

下半身不随の少年は15歳なのだが、マリーのスカートから覗く足を見つめてばかり。
マリーも思いきりスカートをめくって見せてやったりする。
すると少年は、次はパンティをはかないできてくれ。と頼んでくる。おいおい。
でもマリーは次には本当にそうしてしまいそうだぞ。

 

下心がありそうな老判事は希少本だといってマルキ・ド・サドの『ソドム百二十日』を朗読させる。
なんかこんな客が多いな。

 

ヒロインをはじめとして、どこか常識からは外れたような人ばかりが、平気な顔をしてあらわれる映画。
お洒落でエロティックなお伽噺です。
性を開けっぴろげにした「アメリ」、といえば雰囲気としては近いかもしれない。
モントリオール映画祭で最優秀作品賞を受賞しています。

 

「五月のミル」 (1989年) お葬式と五月革命、こりゃ大変

1989年 フランス 107分 
監督:ルイ・マル
出演:ミシェル・ピコリ、 ミュウ・ミュウ

葬儀に集まっての人間模様。 ★★★

 

ルイ・マル監督と言えば、サスペンス映画の傑作「死刑台のエレベーター」を撮り、スラップステップ・コメディの「地下鉄のザジ」を撮った才人。
そんな彼が晩年に撮ったのが本作。
1968年の五月革命を時代背景に、のどかな田舎町でくり広げられる親族の人間模様を描いている。

 

祖母が亡くなり、一緒に暮らしていた長男のミル(ミシェル・ピッコリ)のところへ兄弟や娘たちが集まってくる。
ラジオからはパリの五月革命の様子が聞こえてくる。
その影響で葬儀屋も来てくれず、葬儀の予定がすすまない。
遺産相続にもそれぞれの思惑が絡みあって、相談はなかなかすすまない。

 

オープニングで流れるジャズ・バイオリンに、もしやと思ったら、やはりステファン・グラッペリだった。
ジャンゴ・ラインハルトとのバンドでなじみ深い音色だった。
ルイ・マル監督の映画「ルシアンの青春」で使われていたのが、ラインハルト&グラッペリの名曲「マイナー・スイング」だった。

 

集まってくるのは、ミルの娘カミーユ(ミュウ・ミュウ)と彼女の子供たち、姪のクレールとその女友達、弟のジョルジュと彼の後妻リリー。
それに地元の公証人や家政婦もいる。
そこにパリで学生運動に参加していたジョルジュの息子と行きずりのトラック運転手まであらわれる。
ごちゃごちゃと人が集まっているのだが、まあ、多少の混乱は問題ない。

 

家を売り払うかどうか、銀食器を誰がもらうか、などなど、書斎にはまだ祖母の遺体が安置されているのに、みな勝手に騒ぎ立てる。
そしてピアノは弾くわ、歌うわ、踊るわ、飲むわ、喰うわ、喧嘩はするわ・・・。
フランスだなと思わされるのが、そのうちに当たり前のように始まる男女関係の騒動。

 

ミルは家政婦とよい仲になっていたようなのだが、弟の後妻リリーとも何か怪しくなってくる。おいおい。
ミルの娘カミーユは故郷の幼なじみの公証人と納屋でごそごそ。
姪のクレールはレズビアンなのだが、その女友達は若いジョルジュの息子に気を引かれたり、それに腹を立てたクレールは運転手の前でヌードになって挑発したり。おいおい。

 

基本的にドタバタ・コメディなのだ。
幼い孫娘がミルに尋ねる、どうして叔母さんは裸でベッドに友だちを縛ったりするの?(クレールはSM趣味もあったようなのだ)、ピルってなあに?(このおしゃまな孫娘が可愛い。)
みんな身勝手な登場人物なのだが、しかし、どこか憎めない感じ。
人々を見つめるルイ・マルの姿勢が基本的には優しいからなのだろう。

 

葬式が延期されて、皆でピクニックに興じたりもする。
中盤で、孫を連れたミルが近くの小川でザリガニ取りをする場面がある。その方法が何ともあっけにとられるようなもの。のどかで可笑しい。
ゆでたザリガニを皆で食べながら、またワインを飲んで騒ぎまくる。
フランス人って、こうなのか。やはり人種が違うなあ。

 

そのうちに、五月革命がこのあたりにも波及してブルジョワは殺されるという噂が流れてくる。
一同はいそいで森の中へと逃げ、疲労と空腹で夜を過ごしたりもする。大変なのだ。

 

革命が鎮圧され、遺産相続騒動も男女関係もなんとな~く収束して、親戚一同は三々五々街へ帰っていく。
一人残されたミルは・・・。最後の場面が余韻を残します。

 

騒々しくも愛すべき人たちの人間ドラマ。
大作といったものではありませんが、本音の人たちをゆるい感じで描いています。佳品です。

 

「ザリガニの鳴くところ」 (2022年) 危険が迫ったら、ザリガニが鳴くところまで逃げるんだ

2022年 アメリカ 125分 
監督:オリビア・ニューマン
出演:デイジーエドガー・ジョーンズ

・・・殺人事件サスペンスもの。 ★★☆

 

原作はディーリア・オーエンズの同名小説。世界的に評判となり、日本でも高評価だった。
一人の苛酷な運命の少女の成長譚で地味な内容なのだが、たしかに読ませる何かを持っていた。
かなりの大冊だったが、私も最後まで一気呵成に読んでしまった。
さて、あの物語をどんな風に映画にした?

 

舞台はノースカロライナ州の湿地帯。沼が点在して家は1軒しかないような所。
そこに暮らすカイアは両親、兄2人と5人で暮らしていたのだが、父親がすぐに暴力を振るう様な人物。
母はそのDVに耐えられずにある日、家族を捨ててどこかへ去ってしまう。
兄二人も、もうこの家では暮らせないと言って、それぞれ家を出て行ってしまう。
暴力的な父とふたりで取り残された幼いカイアの必死の生活が始まる。

 

映画の方は、街の資産家の家の青年が変死体となって発見されたところから始まる。
いきなりのサスペンスからはじまるわけだ。その方が映画の作りとしてはやりやすかったのだろう。
そして犯人として疑われて逮捕されたカイアのこれまでの身の上をふりかえる、という構造となっている。

 

カイアは、母が去った6歳の時からは、父親にも育児放棄される。
学校へも通わずに湿地の自然の中で貝を採取してはわずかなトウモロコシ粉と換えて、たった1人で生き抜いてきたのだ。
街の人たちはそんなカイアのことを”湿地帯の少女”とさげすんできたのだ。

 

湿地帯の豊かな自然の描写は、これは映画ならではの美しさで、堪能できた。
自在に小舟を操り、沼を行き来し、その湿地帯に生息する動植物たちとともに成長していくカイア。

 

カイアを温かい目で支えてくれたのは、沼の外れで素朴な商いをしている黒人夫婦。
そしてカイアが出会う二人の青年。
一人は純真でカイアに読み書きを教えてくれた。
もう一人はカイアに言い寄ってきて、ある夜に不審死を遂げた。

 

殺人の罪で起訴されたカイアの陪審員裁判はどうなる?
街の人たちはみんな、”湿地帯の少女”なんてまともな人物とは思っていないぞ。

 

この映画に対する一番の不満は、単に恋物語を絡めた殺人サスペンスになってしまっていたこと。
原作のすばらしさは、サスペンス部分はひとつの味付けで、一人の孤独の少女の成長譚にあったのだが・・・。
この小説の持つ魅力はかなり損なわれていた気がする。

 

最後に事件に大きく関わるあるものが映る。
小説では、なるほど、そういうことだったのか、と余韻を残す程度の扱いだった。
なにしろ、カイアの生き様があまりにすさまじかったので、その前ではそれもひとつの味付けぐらいだったのだ。
ただ映画では、それが物語の根幹であるような扱いだった。あれぇ。

 

小説未読の人なら、普通のサスペンス映画として楽しめると思います。
小説を読んでしまっていたら・・・、あまりお勧めしません。たぶん、がっかりするでしょう(汗)。

 

「春に散る」 (2023年) すげえ世界をみている、だから絶体にタオルを入れるなよ

2023年 日本 133分 
監督:瀬々敬久
出演:佐藤浩市、 横浜流星、 橋本環奈

ボクシングもの。 ★★★

 

コミックでもボクシングものは好きである。
ベスト3をあげろと言われれば、「がんばれ元気」、「はじめの一歩」、それに「あしたのジョー」である(歳がばれてしまうチョイスだが)。

 

本作は沢木耕太郎の同名小説(未読)。
沢木のことだから、真正面からボクシングに打ち込む2人の男の人生を描くわけだ。

 

40年ぶりにアメリカから帰国してきた元ボクサーの広岡仁一(佐藤浩市)。
彼は心臓の病を抱えていて、残りの人生の使い道を探すために故郷へ戻ってきたようだった。
そんな彼とふとしたことから拳を交えた翔吾(横浜流星)は強烈なクロスカウンターを広岡にもらい、俺にボクシングを教えてくれと頼み込んでくる。

 

二人ともかつて不公平な判定で負けたことがあったのだ。
最初は渋っていた広岡だが、かつてのボクシング仲間である次郎と佐瀬に背中を押されて引き受けることに。

 

ここからは一直線のボクシングものとなる。
広岡がかつて世話になっていたジムの秘蔵っ子が現・日本チャンピオン。
まずはこいつを倒さなければ。

 

翔吾にほのぼのとした彼女(橋本環奈)ができたりもするのだが、そのあたりは駆け足気味だった。
原作ではもっとじっくりと書かれているのだろうが、映画の限られた時間ではそこまでは無理だったのか。
少し残念。

 

翔吾が日本チャンピオンに挑戦する。そしてその勝者が世界チャンピオンに挑戦することとなる。
判りやすい筋立てである。チャンピオンとの確執とかをからませて、それをどう見せてくれるか。

 

スポーツもの、格闘ものでは、役者に要求される身体能力も半端なものではない。
横浜流星は中学生の時に空手の世界大会で優勝したことがあるとのこと。
さらに、本作に出演するためにボクシング練習をおこない、なんとプロテストに合格したとのこと。
本気度が凄い。それは身体の動きによくあらわれていた。

 

広岡のかつてのボクシング仲間に片岡鶴太郎哀川翔
特に片岡鶴太郎が独特の味わいをみせていて、よかった。
彼もスポーツ、後にヨガに打ち込んでいるが、若い頃にボクシングのプロテストに合格している。

 

クライマックスは20余分に及ぶ世界タイトルマッチの場面。
ここはすごい迫力で押し切ってくる。もうこの試合場面を観るだけにこの映画を観てもよいぐらい。

 

(以下、ネタバレ)

 

そして、ついに出たっ、広岡と翔吾を結びつけたあのクロスカウンター! なのである。
何も付け加えることはない。

 

ひとつだけ不満を。
それは映画が悪いのではなく原作者の沢木が悪いのだが、・・・タイトルが好くないっ!
これでは最後の場面は、映画を観る前から判ってしまっているではないか。
たぶんこうなるのだろうなと想像したとおりの絵柄だった。