あきりんの映画生活

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「赤い砂漠」 (1964年)

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1964年 イタリア 116分
監督:ミケランジェロ・アントニオーニ
出演:モニカ・ヴィッティ、 リチャード・ハリス

アントニオーニの初カラー作品。 ★★★★☆

ジュリアナ(モニカ・ヴィッティ)は子どもを連れて工場へ夫を訪ねるのだが、先日の交通事故以来、精神的なダメージが未だ残っているようなのだ。
南米へ派遣する労働者を探しにやってきていた夫の友人コラド(リチャード・ハリス)は、そんなジュリアナに魅せられていく。

というようなことで映画は始まるのだが、ここで書きたいのはこんなストーリーの紹介ではない。
映画全体に漂う陰鬱な、どことなく不吉な、それなのに見入ってしまう沈滞した澱のようなものの魅力、それを的確にあらわす言葉のないことが歯がゆい。

たとえれば、それは荒れ果てた廃墟が持っている美しさのようなものだ。
その廃墟は、これまでの時間の堆積を抱えて、そこに物語を豊穣に含んでいる。
アントニオーニの映画の大きな魅力は、画面のひとつひとつ自体が持っている物語の深さのようなものだ。

間歇的に炎をを吹き上げている煙突、人通りもないような工場地帯の道路。
そして、川はヘドロがよどんでいるように思える。

カラーなのだが、全体の色彩は非常に抑えられている。
そして、画面の中のあるもの、それは柱だったり、壁だったりするのだが、だけが原色でくっきりとあらわされる。
その鮮やかな部分との対比によって、画面全体はさらに曖昧なものとなっていく。

ジュリアナはいつもなにかに怯えているような雰囲気を漂わせている。
モニカ・ヴィッティの表情の少ない美しさがそれをよく伝えてくる。

お店を開きたいジュリアナは、その店舗の内装を考えたりしている。
しかし、コラドに何を売るつもりなのかと尋ねられても、自分が何を売りたいのかは分からない。
同じように、ジュリアナは他人を求めているのだが、他人に何を求めようとしているのかは分からないのだ。
だから、いつまで待っても、他人はジュリアナの外側を通りすぎて行くだけなのである。

ジュリアナは友人夫婦たちと戯れながら海辺の小屋で一夜を明かす。
淫らで刹那的な雰囲気で、ジュリアナも笑いころげる。
しかし、そのひとときにもジュリアナが何かに満たされることは決してない。

霧の中からは巨大な船があらわれてくるのだが、それは窓の視界いっぱいに船体を見せつけたり、伝染病を運んでくる存在なのだ。
船は、圧倒的な威圧感をもってどこか外部の世界から自分の世界へ割り込んでくるものをあらわしているのだろうか。

映画の後半でジュリアナはコラドとの情事をおこなう。
しかし、肉体的な喜びが深ければ深いほど、精神的な孤独感はさらに強まっていったのだろう。
情事に求めるものもまた、ジュリアナには欠落していたからだ。
これはアントニオーニのこれまでの映画で扱われる情事の意味あいと共通している。

この映画は公害問題をかなり意識して作られている節がある。
「赤い砂漠」というタイトルそのものにもそのような意味合いが含まれているのかもしれない。
映画の最後で、息子に、なぜ煙突からの煙が黄色いのかと尋ねられ、ジュリアナは毒だからよと答える。だから鳥はその上は飛ばないと。
登場人物たちは毒の充満した世界に生きていることを意識しているわけだ。

その毒に満ちた世界のなかで、孤独な魂はますます孤立していくのだろう。
どこにも出口のない精神世界の住人ジュリアナの彷徨が、強い印象をいつまでも残す作品である。
アントニーニがモニカ・ヴィッティを撮った最後の作品でもある。