あきりんの映画生活

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「Fukushima50」 (2019年)

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2019年 日本 122分
監督:若松節郎
出演:佐藤浩市、 渡辺謙、 吉岡秀隆

福島原発事故。 ★★★☆

 

あの2011年3月11日の東日本大震災メルトダウンまで起こした福島第一原発事故を描いている。
タイトルの"Fukushima50”とは、自らの命の危険を顧みずに原発の施設内で事故の対応に当たった50人の作業員たちのこと。

 

この映画の感想を書こうとして、はたと手が止まってしまう。
映画を観て自分が受けた衝撃をあらわすことが大変に難しい。
それは二つの要因がそれぞれに自分の中で渦巻くからだ。

 

ひとつは、”想定外の自然災害”によって起こってしまった原発事故に対応した職員たちの、英雄的と言っていい行為に対しての驚嘆と感謝である。
この思いがこの映画を作った狙いであるだろう。
映画は、当直長の伊崎(佐藤浩市)ら現場の作業員たちの必死な作業を描く。
そして、現場の指揮を執る吉田所長(渡辺謙)の苦渋の決断を続けざるを得ない姿を描く。

 

もうひとつは、原発が実際にはどのような危険を伴うものであったのかを今さらながらに考えさせられたことである。

震度7の巨大地震、およびそれによる巨大津波福島第一原子力発電所は全電源を失う。
その結果、冷却機能を失った原子炉は崩壊の危機にさらされる。
ベントによる原子炉内の圧力低下、海水注入による応急的冷却、など、当時おこなわれた事柄をあらためて臨場感とともに見せられる。
情報として知っていたこととはいえ、すぐそこまで日本崩壊の危機が来ていたのだと、今さらながらに思わされる。

 

このような事態が生じたことを見せつけられては、原発を安全だと信じて作ったこと自体が誤りであったと考えざるを得ない。
しかし、事故はすでに起こってしまった。
起こってしまった以上はそれに誰かが対応しなければならないのだ。
原発を作った当の本人の政府や東電の幹部は、現場にどうにかしろと怒鳴るばかりなのだ。

 

現場に丸投げで何もできない首相が現場視察になどやってこなければベントはもっと早く実施でき、東電上層部の指示を無視して海水注入を続けたおかげで原子炉損壊も防げたように、映画では描かれていた。
映画であるからには誇張されている部分もあったのだろう。

現場の人たちの必死の頑張りと対比するように、政府役人や東電上層部は描かれていた。

 

このように、現場の作業員たちの頑張りがなかったら、東京までも含む東日本は二度と人が立ち入れない汚染地帯になっていた可能性が充分にあったのだろう。
彼らの頑張りを見せられるほどに、原発がいかに危険なものであったかを、あらためて思い知らされる。
政府や東電が国民全体に思い込ませていた安全神話を、私もまた疑うことなく信じていたのだ。
というか、安全神話を疑うことすらなかったのだ。

なんと無知であったことか。そのような自分に対しての腹立たしさが、この映画を観ているとわき上がってくる。

 

そう考えると、大気を汚さないクリーンな発電であるとか、発電コストが最も安い、などといった謳い文句が空疎に聞こえてくる。
自然に対して原発はもっとも危険な発電方法であるだろうし、事故を起こさなかった場合でも廃炉費用や使用済み核燃料の気が遠くなるほどの長期にわたる管理費用を考えると、もっとも高額な発電方法なのではないだろうか。

 

この映画は原発の是非を問うことを目的とはしていないだろう。
すでに起きてしまった重大危機の回避に貢献してくれた人々を描くのが目的だっただろう。
しかし、彼らの奮闘を知れば知るほど、彼らに対する感謝とともに、原発がどのようなものであるのかを考えざるを得ない映画だった。

 

政府役人や電力会社上層部はこの映画をどのように観たのだろう?
今はもう過ぎたことだとして、後始末のことしか考えていない?