1991年 アメリカ 130分
監督:ジョン・アブネット
出演:メアリー・スチュアート・マスターソン、 メアリー・ルイーズ・パーカー、 キャシー・ベイツ
ジェシカ・タンディ
女の友情物語。 ★★★☆
「ジュリーとジュリエット」に続いて女性ターゲットの映画を。
この作品も2つの年代の物語が交互に描かれていくという構成になっている。
肥満気味の主婦エヴリン(キャシー・ベイツ)は、自分勝手な夫との生活にうんざりしていた。
そんな彼女は見舞いに訪れた病院で老婦人ニニー(ジェシカ・タンディ)と知り合う。
暇をもてあましていたニニーは、エヴリンに友だちの話だとして思い出話をきかせる。
こうして映画は、現代のエヴリンと二ニーの二人と、ニニーが語る1930年代の物語を交互に映していく。
未だ閉鎖的だった1930年代の南部の田舎町では、人種差別や女性蔑視が堂々とおこなわれていたようだ。
そんな町で育ったイジー(メアリー・スチュアート・マスターソン)は男勝りで粗暴。
問題を起こしては周囲から呆れられるような女の子だった。
イジーが大好きだった兄バディには恋人がいて、それがルース(メアリー・ルイーズ・パーカー)。しかしバディは不慮の事故死をしてしまう。
ルースは、イジーとは正反対で淑やかで引っ込み思案の女性だった。
仲良く少女時代を過ごしたイジーとルースだったが、やがてルースはフランクという男と結婚して去っていく。
何年かしてイジーが訪ねてみると、ルースはフランクのDVに怯える毎日を送っていた。
おのれ、フランクめ、私の大事なルースになんてことをするのよっ!
さて現代。
家庭を省みない夫にうんざりしていたエヴリンは、ニニーの語る話に夢中になっていく。
ニニーが語ってくれるイジーの自分を貫く生き方に感銘を受けて、エヴリンは遠慮のし通しだった生き方を変えようとし始める。
キャシー・ベイツが上手い。
太った更年期おばさんだったエヴリンが、私はもうホラー映画の主人公じゃないわよ、と叫ぶようになる(笑)。
身ごもっていたルースをフランクのもとから助け出したイジーは、二人で「駅前カフェ」を始める。
そこの名物料理が、まだ青いトマトを揚げたもの。要するに、フライド・グリーン・トマトである。
酷い差別を受けていた黒人にも開放された店で、繁盛をしていた。
しかし、フランクにそそのかされた黒人差別集団KKKの襲撃を受けたりもするのだ。
黒人野郎が俺ら白人と同じ場所に出入りするなんてとんでもないことだっ!
やはりこの頃のアメリカ南部というのは黒人差別が大っぴらにおこなわれ、なかんずく、それを正義だと叫ぶような状況だったのだ。
そんな中でイジーとルースは周囲からの非難にも負けずに、黒人にも解放した店をやっていたのだ。
えらい。
やがてフランクはルースが生んだ子どもを奪い取ろうとして侵入してくる。
俺の子どもを返せっ! 邪魔をすると容赦しないぞっ!
しかし、その夜以来、フランクは行方不明になったのだ。
フランクは、いったいどうなったのだ?
映画の中で「トゥワンダ」という言葉が出てくる。
どんな意味なのだろうと思っていたのだが、どうやら南部の黒人たちの挨拶言葉で、「やるときゃやるよ!」ということらしかった。
死体は見つからないのだが、殺されてるであろうフランクの殺人容疑でイジーは裁判にかけられてしまう。
状況証拠はそろっている。
誰がみても疑いは濃厚。映画を観ている我々の疑いも同じ・・・。
さてどうなる?
映画の最後、ニニーの語っていたイジーの物語と、エヴリンの物語が重なりあう。
エヴリンはニニーと一緒に新しい人生に踏みだすことにしたのだ。
ほっとするような、好い結末だった。
映画を観た感じでは、イジーは、どう考えてもニニーその人に思えた。
そう考えれば映画全体のまとまりも大変によい。
しかし原作小説では、イジーとニニーはまったく別人物として書かれているとのこと。
おそらく監督は、映画では二人が同一人物に思えるように意図的に物語を構築したのだろう。
また映画では曖昧にされていたが、原作ではイジーとルースは同性愛の関係にあったとされていたとのこと。
今は廃線となった鉄道の駅前に建っていたカフェは、荒れ果てた状態となって残っている。
映画の冒頭の情景が、最後の情景と上手くリンクしていた。
雄々しい女性の生き方を映して、大変に面白いものだった。
(しかし、本当にバーベキュー、した?)
キャシー・ベイツとジェシカ・タンディという二人の名優の演技も堪能できる映画だった。