1970年 日本 118分
監督:吉田喜重
出演:岡田茉莉子、 鴉田貝造、 岩崎加根子、 武内淳、
ATGの政治的背景の意欲作。 ★★★★☆
先日亡くなった吉田喜重監督を偲んでこの作品を鑑賞。
日本のヌーベルバーグの立役者の一人で、彼も活躍したATGの作品はかなり観たものだった。
ATGは「良質のアート系映画をより多くの人々に届ける」という趣旨のもとに1961年に設立されている。
吉田喜重の他には大島渚、今村昌平、篠田正浩などが意欲的な映画を撮っていた。
この作品もそんな中のひとつ。
今は研究者として成功している主人公(鴉田貝造)の妻(岡田茉莉子)が、ある日、帰る家が分からないという少女を家に連れてくる。
するとその少女を追って謎の男が訪ねてきたりする。
そのことを契機に主人公は20年前の政治闘争の日々に迷い込んでいく。
「戒厳令」、「エロス+虐殺」と合わせて吉田喜重の日本近代批判三部作とされるが、他の二作品が史実を元にしているのに対して、今作は全くの創作である。
その分、展開される世界は広かった。
本作が作られた1969年は、学生運動や新左翼の政治闘争が最も盛んだった時期である。
全共闘の安保闘争、羽田闘争、成田闘争、そしてベトナム戦争反対運動などが全国で展開されていた。
この空気感は、全共闘世代、団塊世代でないとなかなかに理解出来ないかもしれない。
ああいう時代があったのだ。
小説で言えば、柴田翔「されどわれらが日々」(芥川賞)や野口武彦「洪水の後」の時代である。
物語の時間軸も錯綜している。
1950年の政治闘争時代、1970年の研究者時代の今、そして未来の1980年、それらが入り乱れる。
主人公が時を超えるだけではなく、各時代の登場人物たちも別の時代にあらわれる。
もちろんそこには何の説明もない。ただ感覚で物語についていくといった感じになる。
映画全体を虚無的なシュールさがおおっている。
登場人物たちは現代詩のような台詞を棒読みのように話し続け、ハイキーな無機質な白黒映像が幾何学的な構図で映される。
そして登場人物たちはオブジェの大きな瓶を抱きしめたり、ヒ゜アノの鍵盤を足て゛叩いたり、ふいに裸体になって溝の中に横たわったりするのだ。
しかし、とにかくその映像の格好良さにはうたれる。
風景には温度を失ったかのような無機質さがあり、描かれる建物にはまったく生活感がない。
いや、建物ばかりではなく、登場人物たちからも生活感は失われている。
岡田茉莉子がさす四角い日傘も印象的だった。
その岡田茉莉子などの衣装デザインは森英恵。当時のモダンだった衣服は、今あらためて見てもお洒落だなと思う。
そして音楽が一柳彗。哀調に満ちた、そして不穏な感じも孕んだコーラスが奏でる曲はうっとりするほどに美しい。
ちなみに、日本映画の私の三大愛聴曲は、この「煉獄エロイカ」、「夢二」(ここでの曲はウォン・カーゥアイの「花様年華」でも使われた)、「砂の器」である。
タイトルの「煉獄」というのは、カトリックの教義では「罪人が償いを果たして浄化されるための苦しみの場」ということのようだ。
また、「エロイカ」はイタリア語では英雄を意味するとのこと。
この映画の物語を理解することはかなり難しい。というか、まず不可能に近いのではないだろうか。
強いていえば、かって政治闘争に加わっていた主人公の今に、その当時の悔恨や無念が襲ってきている。
そのことがどんな未来に向かうのか。そんなところなのだろう。
訳の分からない映画なのだが、退屈することはない。
物語をこえてた映像が、不思議な魅力をたたえている。そんな映画だった。
renngokueroika