あきりんの映画生活

映画鑑賞だけのブログです。★★★★が満点評価ですが、ときに思い入れ加算があります。約2000本の映画について載せていますので、お目当ての作品を検索で探してください。監督名、主演俳優名でも検索できます。

「火口のふたり」 (2019年)

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2019年 日本 115分
監督:荒井晴彦
出演:柄本佑、 瀧内公美

官能ドラマ。 ★★★

 

登場するのは二人だけ、と言ってもいいような映画。
故郷で結婚式を挙げようとしている直子(瀧内公美)と、その結婚式に出席するために帰郷した賢治(柄本祐)。
かっては恋人同士だった二人は、東京で一緒に暮らしていたこともあったのだった。

 

なんの屈託もなく5年ぶりに再会した二人。
ところが、新郎が不在の新居で、直子の引っ越しの手伝いをしたりしているうちに、二人はお互いの身体を求め合ってしまう。
しかも、始めに誘ったのは直子の方なのだ。
結婚を控えているというのに、なぜ、直子はそんな気持ちになる? なぜ、そんな欲望に突き動かされる?

 

柄本佑は上手い。
イケメンでもないし、台詞も朴訥とした感じなのだが、そこが逆にリアルである。
お父さん(柄本明)もすごいし、奥さん(安藤さくら)もすごい。
成長期も結婚生活もそんな環境だったら、生活していても、どこまでが生身でどこからが演技なのか、混乱しないのだろうか?

 

それはさておき。
始めのうちは、なぜ直子が賢治とセックスしようとするのかが、よく判らなかった。
しかし二人の過去がぼつぼつと語られていき、どのような思いが積み重なってきていたのかが判ってくるうちに、自然に納得させられた。
富士山の火口の写真を背景に寄り添っている裸の二人には、それこそ生と性がひとつになっていたのだろう。

 

ついには新郎が戻ってくるまでの5日間、二人は互いの身体を求め合うことにする。

 

言ってみれば、始めから終わりまでセックスをするふたりを描いた映画、ということになる。
全編を通して裸の場面は多いし、実際の行為もリアルに描かれている。
かなりエロい映画である。

 

しかし妙ないやらしさはなかった。
セックスにいそしむ二人が相手の身体を求める気持ちがストレートである。
それにお互いが、嘘をつこうとか、うわべを取り繕うとか、そういったことを一切していないからだと思える。

 

終盤近くになって、二人の環境が大きく変わる。というか、日本の状況が大きく変わる。
個人的には、この展開は不要だった気がした。
環境などとは無縁の地点での二人の有り様を描けば、それで充分だったのではないだろうか。

好い映画でした。

 

「蜜蜂と遠雷」 (2019年)

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2019年 日本 118分
監督:石川慶
出演:松岡茉優、 松阪桃李、 齋藤由起

ピアノに賭けた青春。 ★★★

 

原作は恩田陸の同名小説。
直木賞本屋大賞を獲っている人気作品だが、残念ながら未読。

 

物語の舞台は世界の登竜門とされている国際ピアノコンクールで、そこに出場する4人の若者を描いている。
7年前に突然表舞台から姿を消した元・天才少女の英伝亜夜(松岡茉優)。
“生活者の音楽”を信条にしたもう若くはないサラリーマン奏者の高島明石(松坂桃李)。
優勝大本命のマサル森崎ウィン)は、亜夜の幼なじみだった。
そして。亡くなった世界的ピアニストから推薦された天衣無縫な少年の風間塵(鈴鹿央士)。

 

私はピアノはもちろんのこと、楽器はまったく演奏できない。
小さい頃にバイオリンを少し習い始めたが、まったく才能がなく、すぐに止めてしまった。
二人の子供にも小学生の頃にピアノを習わせてみたが、数年でもう止めたいと言いはじめた。
私の家系には音楽の才能は流れていないのだろう。

 

だから、この映画の4人のような天賦の才の領域で技量を磨きあげていく様には、ただただ感嘆する。
そうか、こういう領域の人たちっているんだ・・・。
そしてその中でも(音楽の神様から)与えられたものには差があるのだな。

 

亜夜と塵が一緒に月を見て、「月の光」、「ムーンライト・セレナーデ」、「月光」と連弾をしていく場面は素晴らしかった。
楽器が上手に弾ける人って、こういうことが出来るのだ、今さらではあるが羨ましい。

 

映画ではかなりの尺が演奏シーンで占められている。
しかしこの映画ではそれが必要だったということがよく判るし、演奏シーンの迫力もあった。
小説では、音楽の迫力をどうやって言葉で表現していたのだろう?

 

物足りなかったのは、タイトルの”遠雷と蜜蜂”が軽く触れられていただけだったこと。
遠くから響いてくる音と、近くで繊細に聞こえる音と、なにか音楽の本質的なことに関係するようなことがあったのだろうか。
このあたりは、どうしても原作でどんな風だったかが気になってしまう。

 

しかし、映画を小説と比べるのはよい鑑賞方法ではないのだろう。
映画はあくまでも映画だ。映画として完結しているはずのものだ。

 

若い男女が出ているのに、物語にまったく恋愛模様を絡ませなかったのは潔かった。
たとえば、この映画の亜夜とマサルのように幼なじみの設定では、「ちはやふる」では淡い三角関係模様だった。
あれはあれで好かったのだが。

 

最後に発表される4人のコンクールの結果には、なるほどと納得だった。
しかし、将来の音楽会を背負って立つのは(超・天才の)風間塵だろうな。

 

「Wの悲劇」 (1984年)

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1984年 日本 108分
監督:澤井信一郎
出演:薬師丸ひろ子、 三田佳子、 世良公則

W劇(劇中劇)。 ★★☆

 

公開時の併映は、原田知世主演の「天国に一番近い島」だったとのこと。
およそ35年前。懐かしい時代だな。

 

夏木静子の同名小説の映画化とばかり思っていた。
違った。
原作小説の物語は、映画の中で劇団が公演している舞台のストーリー(劇中劇)だった。
映画のメインになる物語は、その劇を演じる人々の話。まったくのオリジナルだった。
映画タイトルの「Wの悲劇」は、演じられる劇中劇のタイトルだった。

 

女優を目指す三田静香(薬師丸ひろ子)20歳は、大手劇団の研究生。
次回公演の「Wの悲劇」の主役オーディションで頑張るが、もらえた役は端役だった。
でも、私もいつかは劇団の看板女優・翔(三田佳子)のようになるわ。

 

この映画のとき実際にも20歳だった薬師丸ひろ子が、若い。
彼女は13歳の時に「野生の証明」でデビューして、「セーラー服と機関銃」「探偵物語」と、この頃の角川映画の花形だった。
演技的にはまだ頼りない感じだが、そこが初々しくて好かったのだろうな。

 

静香の恋人役は世良公則だった。
「あんたのバラード」で有名なロックバンド歌手だが、映画やTVにも結構出ている。
この映画でも自然体の演技で悪くなかった。

 

(以下、物語のネタバレ)

 

夏樹静子の原作小説(映画では劇団が演じる)では、祖父が刺し殺され、孫娘が私が刺したと告白する。
しかし、それは真犯人の母を庇うための嘘だったのだ。

 

そんな劇を演じる公演が始まったのだが、看板女優の翔のパトロンが腹上死してしまう。
えっ、どうしたらいいの? ねえ、静香ちゃん、貴方の部屋で死んだことにしてくれない。
もしそうしてくれたら、このお芝居の主役を貴方ができるようにするから。

 

ということで、劇中劇の孫娘そのままに、静香が実際の死亡劇でも身代わりを演じることになる。
このあたりはなかなか上手く原作を活かしていた。
マスコミに騒がれながらも、劇の主役を演じて一躍脚光を浴びるようになった静香。
さあ、大団円はどうなる?

 

いかにもあの時代の角川映画だな、という雰囲気です。
アイドル映画といわれていた一連の作品ですが、それを承知で観た方がいいかもしれません。
薬師丸ひろ子はこの映画でブルーリボン賞の主演女優賞を獲っています。

 

「M:i:Ⅲ」 (2006年)

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2006年 アメリカ 126分
監督:JJエイブラムス
出演:トム・クルーズ、 フィリップ・シーモア・ホフマン、 ミシェル・モナハン、 マギーQ
    サイモン・ペッグ、 ローレンス・フィッシュバーン

シリーズ第3作。 ★★★

 

制作者でもあるトム・クルーズの方針で、当初は1作ごとに監督を変えていたとのこと。
で、今作はJJ.エイブラムス。
いまや「スタートレック」や「スター・ウォーズ」でお馴染みのエイブラムスの初監督作だった。

 

映画は、いきなりイーサン・ハント(トム・クルーズ)が拘束されて尋問されている場面から始まる。
目の前にはやはり拘束されたジュリアン(ミシェル・マナハン)もいる。
ディヴィアン(フィリップ・シーモア・ホフマン)が憎々しげにハントに秘密の品のありかを言えと迫る。こいつ、何者だ?
でないとジュリアンを殺すぞ、お前の頭の中にはもう爆弾を仕込んだぞ。
おいおい、こんな絶望的な状況にどうしてなったんだ? これからどうなるんだ?

 

そこから物語の時間軸がさかのぼる。
実はハントは第一線から身ををき、ジュリアと婚約中だった。もうこれからは平穏な幸せな人生を送るぞ。
と思っていたら、かつての教え子が悪の組織に捕らえられたと知らされる。
救出作戦に参加したハントだったが、教え子は頭の中に埋めこまれた爆弾で死んでしまう。
おのれ、悪の商人デイヴィアンめ。許さんぞ。

 

このシリーズとしては、本作はTVドラマの「スパイ大作戦」に一番近い雰囲気かもしれない。
4人のチームが綿密な連携で不可能ミッションをクリアしていく。
ベンジーサイモン・ペッグ)が登場してくるし、第1作から皆勤賞のルーサーも安定した役割分担だった。
このあと、ハリウッドで活躍し始めるマギー・Qもよかった(どちらかと言えば、ミシュエル・モナハンよりも贔屓だな 笑)。

 

IMFの上官はブラッセル(ローレンス・フィッシュバーン)なのだが、なに?彼はディヴィアンと通じている?
そりゃまずいんじゃないかい。
で、ハントと彼のチームはバチカンに侵入する。
このあたりは「スパイ大作戦」の本領発揮だった。

盗映した画像から変装マスクを作り、録音データから本人の声音を作り出す。
いやあ、面白いね。

 

無事にデイヴィアンを拘束したのだが、彼はじつに迫力満点でふてぶてしい。
さすがにシーモア・ホフマンである。ただ者ではない感が如実に出ている。
そして敵組織は大がかりなディヴィアン奪回をしかけてくる。
ここは頭脳プレイから一転、大アクション場面となる。すさまじいよ。

 

そして冒頭の憎々しげなディヴィアンにいたぶられているハントの場面となるわけだ。

 

(以下、ネタバレ)

 

ここでなんとジュリアが大活躍する。
機敏に動いて、まるでベテラン工作員並みのアクションである。
ついには、反転振り返り寝転びショットまでしてみせる。彼女は本当に看護師か?(苦笑)。

いや、看護師だったのである。心停止呼吸停止にまでなったハントをみごとに蘇生してみせるのである。
これでハントはもう一生奥さんに頭が上がらないことになったな(笑)。

 

頭脳プレイと派手アクションが上手くミックスされていた。
さすがエイブラムス監督、そつなく盛り上げてくれていた。
さて、次からはいよいよトムの大アクション連続シリーズとなっていくわけだな。

 

 

「M:i-2」 (2000年)

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2000年 アメリカ 124分
監督:ジョン・ウー
出演:トム・クルーズ、 タンディ・ニュートン

シリーズ第2作。 ★★★★

 

このシリーズは現在は6作目まで作られているが、そのアクション・シーンはどんどん派手になっている。
もう諜報員ものではなく、完全にアクション映画なのだ(苦笑)。
その流れの基礎を作ったのは、この第2作のジョン・ウー監督だったのではないだろうか。

 

冒頭からすごい場面が映される。
なんと、イーサン・ハント(トム・クルーズ)が命綱なしのロッククライミングをしている。
もう高所恐怖症の私など思わず失禁してしまいそうになる映像である。
片手1本でぶら下がって、そこから飛び移るなんて、「SASUKE」のクリフハンガーじゃあないか!

 

さて、今回の任務は、キメラという怖ろしいウイルスとその解毒剤の奪還。
チーム仲間はMIFのメンバー2人と、それにナイア(タンディ・ニュートン)という一般人の女泥棒。
彼女はキメラを奪った悪党の元カノでもあったのだ。
悪党の彼女への思いを利用して、ナイアは悪党の懐へもぐり込む。
ナイアとすぐに好い仲になってしまっていたイーサンにとっては、そりゃ気が気ではない展開だぞ。

 

スパイ大作戦らしさが少し残っていたのは、競馬場でのSDカード盗みの場面か。
でも、左ポケットから掏摸とって、右ポケットに返すなんて、ちょっと甘いんじゃないかい。

 

今作のキモは、キメラを奪われないためにナイアが自分の身体に打ってしまう、というところ。
20時間以内に抗体を注射しないと、ナイアは死んじゃうぞ。
ミッションにタイム・リミットがかけられる。

イーサンは必死、観ている我々も必死。

 

ジョン・ウー監督のことだから二丁拳銃の場面は絶対あるよな、と思いながら観ていた。
普通は狙いすましてていねいに銃を撃つイメージの諜報員ものだが、ウー監督なので、二丁拳銃乱射シーンはやはり、あった(笑)。

 

すると、お約束の白い鳩も飛ぶのか?
まさか、いくらなんでもそれまではないだろう・・・。
しかしウー監督なので、やはり白い鳩は飛ぶのだった。それもご丁寧に何回も飛んだ(爆)。
おまけにお得意のスローモーションも組み合わせて、格好好い場面にしていた。

 

爆発シーンも派手。火薬の量は半端ではない。
それに迫力満点のバイクによるチェイス・シーン。
これ以後のこのシリーズの売りであるこれらは、やはりこの第2作で基本が作られた感じがする。

 

クライマックスはイーサンと悪党との浜辺での肉体ファイト。
これも凄まじかった。
おいおい、早くしないとナイアが死んでしまうぞ。どうなるんだと、ハラハラしながら観ている。
トムはどこまで本人が演じていたのだろうか。

いずれにしても映画との出来としては満点である。

 

イーサンとナイアはこの後どうなったのだろう?
タンディ・ニュートンはこの後のシリーズには一度も登場しない。
ジェイソン・ボーンは愛した女性に一途だったのに、イーサン・ハントは浮気性?

 

「ミッション・インポッシブル」 (1996年)

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1996年 アメリカ 110分
監督:ブライマン・デ・パルマ
出演:トム・クルーズ、 ジョン・ヴォイド、 エマニュエル・ベアール
    ジャン・レノ、 クリスティン・スコット・トーマス

映画シリーズの第1作。 ★★★☆

 

元々はTVドラマの「スパイ大作戦」。
いろいろな特殊技能を持つメンバーが協力して不可能と思われる指令をこなしていく、という筋立てだった。
だから、本来はアクション中心ではなくて、頭脳プレイが見所だったわけだ。
さあ、映画のシリーズはどうだったか?

 

冒頭にジム・フェルプス(ジョン・ヴォイド)のもとにお約束の指令が届く。
ちゃんと、「例によって、君、もしくはメンバーが ~ 当局はいっさい関知しない」という台詞もあった。
そしてちゃんと指令テープは消滅する。

 

しかしチーム・リーダーであるはずのジムは早々に死んでしまう。
あれ? わざわざジョン・ヴォイドを起用しながら、これだけ? おかしいなあ・・・(苦笑)。

 

主役はトム・クルーズ扮する諜報員イーサン・ハント。
映画シリーズで初めて登場したイーサン・ハントだったが、シリーズの人気とともにすっかり有名になった。
どれぐらい有名かというと、ジェームズ・ボンドジェイソン・ボーンと並ぶぐらい(3人とも名前の音が4文字+3文字でリズムが好いんだよね 笑)。

 

物語の眼目は、CIA情報員のリストの争奪戦。
もしこのリストが敵の手に渡ったら潜入している世界中の情報員が危険にさらされてしまう。
なんとしてでもリストを守って、組織のなかに居る裏切り者を捜し出さなくては。

 

で、CIAの厳重警戒されている部屋からの資料を奪取することになるのだが、この場面が迫力満点だった。
なにしろその部屋は、床に重力センサーがあって、ちょっとでも変化があれば警報が鳴ってしまう。
さらに部屋のなかの物音、温度変化に対するセンサーもある。
それらのセンサーに引っかからないようにしなければならない。どうするんだ。

 

で、ハントは天井からワイヤーで宙吊りになって部屋に忍び込む。
もうこのシーンで、このシリーズの人気が不同になったといってもいいのではないだろうか。
あわや、コップの水滴が床に落ちてそうになって警報が鳴りそうになる場面は思わず息をのんだぞ。

 

ということでこの映画では、それぞれの専門分野のメンバーが特技を発揮して困難なミッションを果たすというのとはちょっと違った。
協力するメンバーが何人かはいるのだが、実質的にはハント一人の(トム・クルーズ一人の)活躍に焦点が当てられている。
まったくのトムのための映画(苦笑)。
ジャン・レノもメンバーとして頑張っていたのだが、格好良さはもう一つだったな。

 

でもとても面白かったので、満足度は大。
変装マスクを顎のあたりから剥がして、本当は俺なんだよ、と見せるあたり。
そして、あの何度も流れるあのラロ・シフリンのテーマ曲。

 

ああ、そうそう。ジョン・ヴォイドね。やはりね(苦笑)。

 

「炎のランナー」 (1981年)

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1981年 イギリス 124分
監督:ヒュー・ハドソン

走ることに賭けるものは。 ★★★

 

アカデミー賞で作品賞など4冠に輝いている作品。
音楽賞を獲ったヴァンゲリアスの音楽も話題になった。
オリンピックで走った実在の2人のランナーを描いており、ジョギングを趣味としている者としては観ておかなくてはならない映画だろう。

 

時代は1912年。
ユダヤ人のエイブラハムスは、誰よりも速く走ることで皆に自分を認めさせたい。
そうなのだ、この時代はユダヤ人というだけでの差別や偏見があり、彼はそれを受けて生きてきたのだ。
ケンブリッジ大学という名門校に入った今でも、だ。

 

だから彼は、誰よりも勝利への執念が強い。
その走りの強さを認めさせることによって、周囲の差別や偏見をはねのけようとする。
そのためには、プロの個人コーチを雇ったりもしたのだ。
マチュアリズムに反するとして大学幹部からも批判されることを承知の上で。

 

勝利のためにすべてを賭ける、そんな彼の行為は少しやりすぎのようにも思える。
しかしそこまでしなければ、ユダヤ人の彼は正当に評価されない時代でもあったのだろう。
そう考えると、彼の頑張りもそれだけ必死だったのだなと思えてくる。

 

もう一人はスコットランド出身のリデル。
牧師でもある彼にとっては、早く走れることは神から与えられた恩寵のようだったのだ。
彼は神の意思を全うするためにもレースに勝たねばならない。
彼にとっては、走ることは神に仕える手段でもあったわけだ。
だから、走ることに対しての考え方がエイブラハムズとは根本的に異なっている。

 

クライマックスは1924年のパリ・オリンピック。
二人はそれぞれイギリス代表としてオリンピックに臨む。
しかし、リデルに大きな問題が降りかかってくる。なんと、彼が出場する100走の予選が日曜日だったのだ。
日曜日はキリスト教徒にとって安息日であり、神の教えに従えば何もしてはならないことになっている。
競技をするなんてとんでもないことなのだ。

 

しかし、オリンピックだぞ。国の代表として来ているのだぞ。
お前の個人的な信仰心でイギリス国民の期待を裏切るのか?
さあ、リデルはどうする?

 

30年ほど前の世界陸上走り幅跳びでも似た事例があった。
競技日が日曜日だったために、世界記録保持者であるジョナサン・エドワーズが競技をボイコットしたのだ。
彼も敬虔なクリスチャンだったのだ。
当時はかなり話題になったのを覚えている。

 

この映画だが、冒頭のヴァンゲリスの音楽にのって若者たちが浜辺を走るシーンは有名だった。
ただこの映画、主役二人の絡み合いがほとんどなかったのが肩すかしだった。
同じ年のオリンピックに100m走の選手として出場した2人のイギリス選手を、平行して追っている、という作りだった。
物語として、もう少し二人の交友など描けば、面白くなったのだがなあと、これは無い物ねだり。

 

さて。
リデルはどうしたのか。エイブラハムズはどうだったのか。
映画は淡々と100m走と、400m走(!)の様子を映し出す。
なるほど、そういう結末だったのか。