2005年 フランス 81分
監督:フランソワ・オゾン
出演:メルビル・プボー、 ジャンヌ・モロー
死と向き合う青年。 ★★★
フランソワ・オゾン監督が、”死”をテーマにしたシリーズの2作目となる作品。
(1作目はシャーロット・ランプリング主演の「まぼろし」だった)
余命宣告を受けた青年が死と向き合う様を描いている。
華々しい活躍をしていたカメラマンのロマン(メルビル・プボー)は、ある日突然、末期癌で余命は3ヶ月だと医師から告げられる。
転移のために手術は不可能で、化学療法も成功率は5%以下。
治療を断念したロマンは、自分の死と向き合うことにする。残されたときをただ過ごすことにする。
事故死などの突然死とは違い、病死の場合は死ぬまでの時間がある程度は自分で認識できる。
これを、身辺整理をおこなうなど、自分の生にけじめを付ける猶予と捉えるか、死ぬまでの辛い日々を生きなければならないと捉えるか・・・。
いつの日にかは我が身に起こるかもしれない状況なので、自分だったらどうするだろうという思いが交錯しながら映画を観ていくことになる。
ロマンは折り合いの悪かった両親、姉には余命のことは告げない決心をする。
ゲイだった彼には一緒に住んでいる恋人がいたのだが、その彼にはわざと冷たく当たり、家から出て行くように仕向ける。
意図的に自分と関わりのあった人たちから自分を切り離していく。
ロマンはひとりぼっちで死んでいこうと決めたようなのだ。
彼のこの行動にはもちろん寂しさがあるのだが、一人で自分の死を迎えるという強さもある。
そこには他人に対する優しさと、身勝手さが裏表にあるようにも感じられる。
ロマンがただ一人だけ自分が間もなく死ぬことを打ち明けたのは、離れて暮らしていた祖母(ジャンヌ・モロー)だった。
どうして私だけに話してくれたんだい?
きっと似ているもの同士だからさ。
祖母は、今夜、お前と一緒に死にたいよ、と言ってロマンを抱きしめてくれる。
ジャンヌ・モローはこの映画のときには70歳代後半のはず。
深みのある雰囲気はさすがの存在感を漂わせている。ただ者ではないな。
カメラマンだったロマンは街を彷徨い、見かけた光景を手にした小型カメラに収めていく。
それは彼が生きていた日々の記録であり、シャッターを押した瞬間にはまだ彼が生きていたという証でもあるのだろう。
仲違いをしていた姉とその子供を、遠くから気付かれないように撮る場面がある。
それは姉を許し、姉を嫌っていた自分をも許した、ということだったのだろう。
(以下、最後の場面に触れます)
頬がこけ足取りもややおぼつかなくなった彼は、ひとりで行楽客でにぎわう海辺に行く。
砂浜に敷いたシートに横になるロマン。
日が傾き、遊びに興じていた人々は次々に家路につき、砂浜には人影がなくなっていく。
そんななかで横たわったロマンだけはいつまでも動かない・・・。
ときに、なんだ、これ? 何が言いたかったんだ? という作品を撮るオゾン監督ですが、この作品は大変に素直なものでした。
しみじみとしてきました。