1994年 オーストリア 95分
監督:ミヒャエル・ハネケ
ストーリーを否定した映画。 ★★
冒頭に、学生が銀行で3人を殺した後に自殺したというテロップが流れる。
映画は、その加害者と被害者たちの事件前の日常を断片的に描いていく。
(タイトルでは71の断片ということだが数えてはみなかった)。
ハネケ監督の作品は、F.カフカ原作の「城」を観たことがあるだけだった。
あれは、なにしろ原作がカフカであるから、物語があるような、ないような(なにしろカフカだから)ということを覚悟して観た。
この作品もとにかく脈絡のない各自の日常がただ淡々と描かれるだけ。
文字通りの断片であり、そこにはなんの物語性もない。
たとえば、ある兵士は武器倉庫から銃を持ち出す(この銃が乱射に使われる)。
ある男(銀行に勤めている)は妻との会話もなく沈黙に浸っている。
ある青年(彼が事件を起こす)は卓球の練習に打ち込んでる(この場面は退屈してくるほど延々と長い)。
ある浮浪児は無一文で街をうろついている(次の夫婦が彼を引き取る)。
ある夫婦は無愛想な孤児の少女を養子にしようとする(奥さんが銀行に居合わせる)。
老人は1人でテレビを観たり孫に電話をする(彼の娘が銀行で働いている)。
といった具合。
個人の断片が映されるのと並行して、世界の断片もTVのニューズ番組という形で映される。
それはソマリアやハノイの情勢であったり、マイケル・ジャクソンの幼児虐待の報道だったりする。
最後に突然学生による銃乱射となり、映画のすべてが集結する。
登場人物たちのこれまでの日常が、銃乱射のその場所に居合わせることになった必然性のようなものに結びついているかというと、それも皆無であり、ほとんどたまたま居合わせたというだけである。
それだけである。
では、ここまで各自の日常を映してきた意味はなんだったのかと言うことになるのだが、それに対するなにかの示唆があるわけもない。
ただ、それだけ、なのである。
DVDにはハネケ監督のインタビューが収められている。それによれば。
メジャー映画はあたかも全体を知っているかのようにすべてを描くが、人は断片しか知ることができない。だから映画も断片しか描けないのだ。けれどその断片から観客が想像を馳せることによって、今まで言葉にして見つけられなかった何かが人の数だけ生まれる。
と、いうことなのだそうだ。
音楽は一切流れない。ただ物音がするだけである。
現実世界ではバックに音楽が流れるなんてことはないのだから、ハネケ監督にすれば当然のことなのだろう。
う~む、これを面白いと観るか、どうか。
試みとしてはなるほどと思うところがありますが、正直に言って、わたしには退屈でした。
娯楽性は全くありません。
そのつもりで心して観ましょう。